精神医療ガイドラインとローゼンハン実験のわかりやすい解説
アナタが美術館にいたとしましょう。そして上記の絵画を鑑賞したときどのような感想を抱きますか?
こころの葛藤を描いたすばらしい作品だ
きっと高名な画家が描いたにちがいないわ!
ぜんぜんわからん
どうでしょう? もう一度上記の絵画をじっくり鑑賞してみてください――どのような感想をもちましたか?
これはわたし(犬物語)がテキトーに描いた絵です。ペイントとマウスでだいたい3分くらいでしょうか。なかなかの力作だと思います。
美術館にはよくわからないというかどういう意図をもって描かれたのかまったくわからない作品が多いと思いませんか? アナタが美術館を訪れたとき、それらをただ手放しに「すばらしい!」と言ってるでしょうか? ――違いますよね? 少なくとも作者の説明や特徴、その作品に込められた想いなどの説明を受けて、それらを加味した上であとから絵を鑑賞し「なるほど、これはすばらしい!」という評価になると思います。
同じ絵でもそういった付加情報があると価値観が変わってきます。これはこころの問題でも同じで、カウンセラーや精神科医は相手とじっくり観察してはじめてその人の課題や問題点を特定できるのです。
彼らはヤブじゃありません。科学的根拠に基づくガイドラインに沿ってあなたのこころを診断していきます。お医者さんですらこのような作業が必要なのですから、わたしたちがすぐ「自分は〇〇だ」なんて診断できなさそうです。
こころに不調を感じたならすぐにカウンセラーや精神科に通いましょう。でも精神科医の診断ってほんとうに信用できるの? ――日本でよく用いられる精神疾患のガイドラインはどのようなものでしょうか?
精神科医はすぐ病名を教えてくれないってほんとう?
アナタが風邪をひいたとき、病院に行ってお医者さんに診てもらいますね。その時、先生は何を根拠に病名を診断するでしょう?
だるい? 熱がでる? ――なんか知らんが風邪でいいや。とりあえず薬出しときますねー
こんなテキトーな医者はいないでしょう? 彼らは何年も病気について勉強し、実戦経験を積んだ上で臨床現場に立っています。ですが、彼らは決してカンで病名を診断したりしません。
先生たちは一定のガイドラインに従って病名を判断しています。すべて科学的根拠(エビデンス)に基づき策定されたもので、たとえば『新型コロナウイルス感染症(COVID-19)』の診断や治療に関してもガイドラインが示されています。
また世界保健機関(WHO)は世界基準のガイドライン『疾病及び関連保健問題の国際統計分類(ICD-11)』を策定し、世界各国の疾病に対する総合的なガイドラインとして使用されています。
・病気の診断は科学的根拠があるガイドラインに従って行う
・概要、診断基準、治療方法など幅広く策定される
・どのような疾患にもガイドラインが設けられる
精神疾患のガイドライン DSM
日本には多くの精神医学系の学会があり、疾患ごとに細かいガイドラインが設けられています。公認心理師やカウンセラーなどは医者ではないので病気の診断はできませんが、どうやって心にアプローチするべきかのガイドラインも団体によって示されていますね。
数多くのガイドラインがありますが、精神疾患に関して多くの精神科医が重宝するガイドラインはアメリカ精神医学会(APA)が刊行する『精神障害の診断と統計マニュアル(DSM)』です。2023年11月2日現在は第5版が最新版です。
精神疾患は他の病気とくらべ診断が難しい
風邪や骨折、内蔵の疾患などは検査をするとその部分に異常が起こっていたりするので特定することが比較的容易ですね。しかし精神疾患は心に不調をきたしても内蔵に傷があるわけでもないですし、熱やのどの腫れがあるわけでもありません。
精神疾患はどこが悪いのかが特定できないのです。そうすると「ウイルスが原因の風邪という病気です」と診断しにくくなります。これが精神疾患のむずかしいポイントで、はっきりと病名を特定するには何度か通院したり、検査を重ねていくことが重要です。
・風邪や骨折は検査をすれば悪い場所がわかる(器質的疾患)
・精神疾患は表面上はどこも悪くなっていない(機能的疾患)
もちろんすべてがこうだとは言い切れませんが、精神疾患はおおむねこういった難しさがあります。DSMはこれらを判断するため以下例のように『どのような症状があるか』という事実から病名を特定していくスタイルになっています。
・何の感情も湧かず、何にも興味がなくなった
・やる気がまったく起こらない
・1日ずっとぼーっとしてるような状態だ
これらの状態を診るほか、前提として病歴(身体的なもの含む)、家族構成や家族の精神疾患歴、生活習慣、学歴職歴、本人の性格など多くの状態から慎重に判断する必要があります。
患者はこころが不安定になっているので、たとえば本当のことを言いたくないがためウソをついたり(それが症状の場合もある)、本当の状態を言わなかったり、もしくは忘れてしまっていたりします。
こんな状態からたった1度の通院ですべて特定するなんて難しいでしょう?
こういった難しさから、最新のDSMでは科学的根拠に基づきどのような症状がどの程度出ているか、どの期間にその症状が現れたかなどを細かく評価することでより鮮明な基準を設定。これにより病名の特定だけでなく適切な治療法や予後についても対応しやすくなりました。
日本中の精神科医が参考にするDSM、実は専門書店や通販サイトなどで購入可能ですが、あまりにも専門的な内容のためかなり高額 & 相応の知識が求められます。
現代ではエビデンスに基づき細やかなガイドラインが設けられていますが、ほんの数十年前まではこれらの診断基準があいまいで、大きな議論を産んだ実験が行われたこともありました。
DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアルDSMの簡易版
DSM-5-TR 精神疾患の分類と診断の手引アメリカ精神医学会(APA)
公式ページは こちら(英語)
精神科医が患者を見分けられないことを証明した実験
YouTubeチャンネル、精神科医 松崎朝樹 2ndチャンネル:投稿動画より
精神医学はれっきとした医療ですが、診断や治療方法が曖昧だという指摘が昔からあり、これらを批判するような議論も多くありました。とくにDSM-2が発刊される1968年の前年、ヨーロッパで活躍した精神科医によって『反精神医学(Anti-psychiatry)』という言葉が誕生。患者にとって精神科医がほんとうに必要なのかが問われる時代となったのです。
そんな時代が続く1973年、アメリカの心理学者『デビッド・ローゼンハン(David Rosenhan)』によってある実験が行われました。
精神科医が見抜けなかった”詐病”
ローゼンハンは自身を含め9人の参加者を募り、以下のような実験を行いました。
・精神科医に受診し「幻聴がする」と訴える
・入院措置がなされたら「幻聴がなくなった」と訴え退院を願う
たったこれだけです。受診時にはただ「ドスン(Thud)という音がする」などの幻聴だけを訴え、その他はとくに指示されず通常通りの生活態度をしていました。受診時に精神疾患の判定をされなければそのまま終了です。
ただ幻聴がするだけでは詐病だと見抜かれるだろうと思いますが、そこには予想を覆すような結果が待っていました。
あーキミ精神疾患にかかってるね。入院
え?
まさかの全員入院です。1人が鬱病と診断され他は統合失調症と診断されたようです。
入院した偽患者たちは、入院中の様子を報告のため逐一ノートに記録していましたが、それさえも異常行動として扱われることがあったそうです。
実験参加者たちは入院後すぐ「幻聴がなくなった」と訴え退院を願い出ました。しかし彼らに対し退院のため驚くべき条件を突きつけられました。
・自分は精神病患者であると認めること
・抗精神病薬の服用に同意すること
退院時の診断は1人をのぞき寛解状態、つまり治ったではなく一時的に症状がおさまったとされたのです。一般人が抗精神病薬を飲むわけにきませんから隠れて処分したようですが、患者として入院した参加者たちは、結局退院まで平均19日間を要しました。
ほらね? 精神科医でも患者を正確に診断なんてできないんだよ
冗談じゃない! もういちど実験者を送り込んでくれば全員見抜けるわ!!
ふーん、いいよ、じゃあ3ヶ月以内に1人以上送り込むからね
実験場とされた病院や関係者、精神科医たちは公表された結果に激怒し、もういちど偽患者を送り込むよう要求しました。ローゼンハンもそれに同意し、その後数週間にわたり偽患者をつきとめる戦いが起こったのです。
では、その結果どうなったでしょう? ――やはりというか、こちらも予想を上回る事態になりました。
ぜんぶで193人の患者を診てきたが42人は怪しい。しかし41人は確実に偽患者だ!!
え? こちらはひとりも偽患者を送り込んでないけど?
まさかの正答率0%。総合して83人の容疑者すべてがシロだったということになります。
実験の第一段階では幻聴を訴えただけで100%入院できたのに、この期間中は5分の1以上が精神科医に詐病だと診断されたのは驚愕の結果ですよね。
精神科医は患者のこころを診断する専門家です。しかしその専門家たちがことごとく診断を失敗するという結果は大きな衝撃を生み、2023年の今でも有名な実験として語り継がれています。
Science
ローゼンハン実験の論文については こちら(英語)
実験の信ぴょう性 人は他人の”正気と狂気”を区別できるのか?
ローゼンハン実験は『非常識な場所で正気でいられるか?(On Being Sane in Insane Places)』というタイトルで有名な科学雑誌『サイエンス』に発表されました。しかしこの実験は参加者はもちろん、ローゼンハン自身も資料を保存していないため多くの懐疑的意見もありました。
実験参加者は本人を含め9人とされていますが、実際に9人の参加者が確かめられたワケではありません。さらに「幻聴がきこえた」だけ訴えるとされた手法ですが、その他にもいくつかの症状を訴えたという説もあります。
こういった批判は多いですが、この実験で得られた事実は大きな影響を及ぼしました。当時議論を読んだローゼンハン実験ですが、では現代においても精神科医は詐病を見抜けないのでしょうか?
なりすまし——正気と狂気を揺るがす、精神病院潜入実験犯罪者が精神鑑定でウソをつけるか?
精神疾患をでっちあげることはまず不可能と考えたほうが良いでしょう。
精神疾患の短期間での特定はとても難しく、こころは時間とともに変化していくのである時期から診断名が変わったりすることもあります。そういった変化を敏感に察知できるよう、DSM-5ではあらゆる症状や視野から診断基準を設けています。
現代は医療研究が進み多くのエビデンスがあります。それをもとにガイドラインが敷かれ細かい症状を観察することも可能です。すこし時間はかかりそうですが通院すれば必ず病名を特定でき、適切な治療を受けることができるでしょう。
犯罪者が受ける精神鑑定は数段階にわかれ、長期間にわたって鑑定されます。知識不足のまま専門家の観察のもとで精神疾患を偽らなければならないことを考えたら、素人ではまずムリなのではないでしょうか?
彼らはこころのスペシャリストです。もし、アナタ自身のこころに不調を感じたなら自己診断せず必ず専門家のもとでアドバイスを受けてください。日本にはこころの専門家が多く働いています。アナタの悩みを見抜き、多くのテクニックを駆使してアドバイスをしてくれるので、すこしでも心当たりがあれば迷わず専門家に相談してみましょう。
穏やかに生きる術 うつ病を経験した精神科医が教える、人生の悩みを消す練習帳
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