ほんとは広島カープスだった!? 広島東洋カープの歴史をわかりやすく解説します
1872年、アメリカ人の教師ホーレス・ウィルソンが当時勤務していた第一大学区第一番中学(後の開成学校)の生徒たちにベースボールを教えました。これが日本における野球のはじまりと言われています。
それから150年。日本では野球が国技として認知され、国際大会では数多くの輝かしい成績を残すようになりました。とくに2023年に行われたWBCは『大谷翔平』選手の活躍などもあり記憶に残っている方も多いのではないでしょうか?
日本初のプロ野球チームは1920年に発足しました(日本運動協会)。100年以上の歴史をもつ日本プロ野球界では数多くのチームが誕生し、今では2リーグ12チームだけでなく日本各地に独立リーグも作られていますね。12球団を確認してみましょう。
~ セントラル・リーグ ~
・読売ジャイアンツ
・阪神タイガース
・中日ドラゴンズ
・東京ヤクルトスワローズ
・横浜DeNAベイスターズ
・広島東洋カープ
~ パシフィック・リーグ ~
・福岡ソフトバンクホークス
・埼玉西武ライオンズ
・千葉ロッテマリーンズ
・北海道日本ハムファイターズ
・オリックス・バファローズ
・東北楽天ゴールデンイーグルス
どのチームも強いですよね――あれ、でもちょっとまってください。なんか1チームだけ単数形になってませんか?
広島東洋カープ。他チームが“~ス“もしくは “~ズ“になってるのに対しカープだけカープになっていますね。これはいったいどういうことなのでしょうか?
広島東洋カープのトリビアについてわかりやすく解説します
カープは英語で[ Carp = 鯉 ]の意味です。これの複数形なら[ Carps ]になりそうですが、実は一部の単語は複数形になっても形が変わらないものがありカープの複数形は[ Carp ]なのです。以下例を紹介します。
・Carp
・Fish
・Sheep
・Deer
・Water
これらは群れを構成してカウントすることが難しい動物だったり、あるいは水のように数えられないもの、さらに複数形にすると発音が難しくなるなどいろいろな理由があります。とにかく単数形と複数形が同じ単語があるとだけ覚えておきましょう。
英語が得意な方はバッファロー[ Buffalo ]の複数形も変化しない場合があるとご存知でしょうが、バッファローは複数形で変化する場合もあるので問題ありません。さらにスポーツチームでは、たとえ複数形の形が変わらなくても慣例的に変形させることがあるのでカープスでも問題ないと言えなくもないです。というより以前の『広島カープ』時代、ほんの僅かではありますが『広島カープス』として知られていた時代があります。
なぜ複数形の読みでなくなってしまったのでしょうか? それは1949年にあったプロ野球再編問題にあります。
1949年のプロ野球再編問題
1945年に終結した太平洋戦争(第2次世界大戦)後、日本はGHQのもと復興し始めていました。当時から国内で人気だった野球ですが、人材が戦中に散るか生き残っても身体を壊しているなど多くの問題を抱えていたため衰退の危機に瀕していたのです。
選手たちは各所で試合を開催し、アメリカに倣った経営活動、スポーツ新聞やラジオ放送などの媒体、そして川上哲治をはじめとしたヒーローの台頭により徐々に国民的スポーツとしての地位を取り戻していきます。広島東洋カープの前身『広島カープ』はまさにこの時代に誕生しました。
1949年、それまで8チームだったチームが15チーム2リーグ制に改革され、現在の日本野球機構(NPB)が発足。多くの地域が名乗りをあげ、当時原子爆弾の標的にされ焦土と化していた広島もその候補となり、中国新聞をはじめ多くの地元企業が協力して広島カープが誕生したのです。
広島カープスでも悪くない――けど
広島は当時から野球好きの町として有名でした。強豪としてしられる広島商業、広陵、呉港などの野球の名門校があり、プロ野球選手としても鶴岡一人をはじめ名選手を排出している野球王国です。
野球好きな地元民と復興を掲げる企業の協力によって広島カープが誕生します。当時はいろいろな案があったのですが、最終的に広島が鯉の名産地であり、広島城の別名鯉城にかかるのと、戦争の荒廃から復興するという意志を込めて鯉が採用されたようです。ただし、当初は『広島カープス』という命名でした。
スポーツチームの慣例として名前を複数形にすることがあったからです。ではなぜすぐ広島カープになってしまったのでしょう? ――それは多方面から単語の形式としておかしいという指摘があったかららです。
文字通り多方面です。情報をたどると広島大学、英語科の教授などの細かい情報がありましたが、残念ながらこれ以上検索しても具体的な名前がヒットしませんでした。しかし、大学教授に限らず一般市民からの問い合わせも多かったようですね。
いずれにしても、これらの指摘があったので球団の正式名称は『広島カープ』となり、1968年に東洋工業(現:マツダ)が筆頭株主になり『広島東洋カープ』へ改名するまで継続していくことになります。こうした歴史から、広島は12球団あるプロ野球のなかで唯一“S“がつかない球団となったのですね。
ちなみに、広島カープの初年度(1950年)の成績は最下位、しかも勝率3割届かず(0.299)という結果に、しかも広島東洋カープに名を変えるまでAクラス入りすらできない暗黒っぷりを披露しています。
今の広島とぜんぜん違いますね。当時の広島カープは確固とした親会社をもたず寄付金などで賄っていたこともあるくらい資金難でした。今はマツダという後ろ盾がありますが、それでも地元密着型として発展していってほしいですね。
広島東洋カープは地元密着型のチームとして市民からも愛されています。それはあのはだしのゲンの作者が描いた『広島カープ誕生物語』を見てもわかりやすいでしょう。作者の中沢啓治氏は熱心なカープファンで、自身の経験や当時のファンや選手が実際にやったエピソードをマンガに描いています。
主人公『大地進』の目を通して広島カープの誕生、ファンがやらかしたアレ(ポール引っこ抜き)やコレ(樽募金)を追跡してみるのもおもしろそうですね。
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