【聖地巡礼】船村徹記念館に行ってきたよ【湧水の郷しおや】

YouTubeチャンネル、おいでよ日光:投稿動画より

 アナタの住む町に市町村歌はありますか? ――わたしのふるさと『日光市』には日光市の歌があります。その曲を日光市に縁のある偉大な作曲家『船村徹』氏が手掛けているのです。

 これを知って、船村徹氏のファンなら「いやいやちょっと待て」となるのではないでしょうか? 船村徹氏といえば出身は『栃木県塩谷郡塩谷町(旧:船生村)』です。日光市の隣町ですが、船村徹は日光市とどういった縁があるのでしょう?

 実は、船村徹(本名福田博郎)氏は日光市(今市市)の学校に通っていたのです。2006年の市町村合併により今市市が日光市に吸収され、日光市は新たな市歌の作曲を船村徹氏に依頼したのでした。また、彼が弟子とともに活動した『楽想館』も日光市にあり、楽曲は日光市のホームページからいつでも視聴できます。

 今回、そんな日光市に縁のある偉人に触れたいと思い、日光市街地にある船村徹記念館に足を運んだので、それらの様子や船村徹氏の故郷『船生』で得た彼の幼少時代についても書いていこうと思います。

日光市
 日光市の歌、各バージョン視聴は こちら
道の駅 日光 日光街道ニコニコ本陣
 日本のこころのうたミュージアム・船村徹記念館については こちら

“船村徹”ってどんなひと? 日本中から尊敬される作曲家の魅力に迫る

Youtubeチャンネル、道の駅日光 日光街道ニコニコ本陣:投稿動画より

 船村徹氏は昭和7年、栃木県塩谷郡船生村(塩谷町)で誕生しました。生まれてから18年間を故郷で過ごし、母や姉の反対をおしきって東洋音楽学校(東京音楽大学)のピアノ科へ入学。当時、彼はまったくピアノが弾けなかったと言います。

 彼の父は獣医でしたが、自宅には彼の趣味で音楽レコードがたくさんありました。幼少時代は吹奏楽部でトランペットを担当していたこともあり音楽家を目指すことになったのでしょう。

運命の出会い、そして別れ

 大学在学中、同じ方言を使っていた『高野公男』氏と出会い、苦しい下積み時代の末高野氏が作詞、船村氏が作曲のコンビで『別れの一本杉』が大ヒット。ほか『ご機嫌さんよ達者かね』や『あの娘が泣いてる波止場』などのヒット曲を世に送り出しました。

 順風満帆と思われた矢先、相棒の高野公男氏が肺結核に倒れ26歳の若さでこの世をさります。彼との会話のなかで生まれた「俺は茨城弁で歌詞を書くから、お前は栃木弁で作曲しろ」という言葉を最後まで貫き通すため、船村氏は最後まで故郷の響きを大事にした楽曲を創り続けました。1950年代といえばポップスやジャズ、ロックなどが流行していましたが、彼が演歌一本に絞ったのも高野氏の「焼け野原で働く大衆のための歌を作れ」という言葉に突き動かされてのことです。

 彼と過ごした7年間がいかに大きかったのかが伺えますね。

歌に身を捧げ日本人のこころを表現し通した偉人

 1979年、フリーランスになった彼は全国を巡り人々と交流しながらうたう『演歌巡礼』をはじめます。刑務所への慰問など歌手活動にとどまらない行動力を見せ1995年には『紫綬褒章』を受賞。生涯を通して5000曲以上を手掛けたとされています。

 音楽会に幅広い人脈があり、彼の曲は『美空ひばり北島三郎鳥羽一郎春日八郎三木たかし』ら多くの著名人にうたわれてきました。生涯現役を貫き作曲を続けた彼でしたが2017年、自室で倒れているのを長男婦人が発見し、心不全のためこの世をさりました。

 これまでの偉業を称え、政府は『従三位』の位に叙されています。これ、どのくらいスゴいことかというと、戦国武将『加藤清正』や『島津義久』、近代では『黒澤明』などと同列です。歴史上の偉人と肩を並べるなんてスゴいですね!

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船村徹記念館 船村徹の偉業

 彼の記念館である『日本のこころのうたミュージアム・船村徹記念館』は、彼が通った高校の近くにあります。もしアナタが『今市中学校』や『今市高等学校』を卒業した方なら胸を張ってこう言いましょう。

<strong>日光市民</strong>
日光市民

今市市は”イマイチ“なんかじゃない! 船村徹氏がいるんだぞ!

 地元でも自虐ネタとして使われる言葉です。言うと地元民は喜ぶので日光市にお越しの際はぜひご活用ください。ちなみに今市市は日本プロ野球で完全試合を達成した『八木沢荘六』氏の出身地でもあります。これだけ偉人を揃えておいて「イマイチ」はないですよね?

 青年時代を塩谷町・日光市で過ごした船村徹氏。彼の偉業をまとめた記念館の中はどうなっているのでしょうか?

道の駅日光 日光街道ニコニコ本陣
 日本のこころのうたミュージアム・船村徹記念館特設ページは こちら

船村徹記念館へ行くには?

 記念館は『道の駅 日光 日光街道ニコニコ本陣』と併設されているのでおすすめの交通手段は『』ですね。以下ルートをご確認ください。なお、紅葉など時期によっては非常に混雑しますのでご注意ください。

日光宇都宮道路から
 今市ICで下車 → 日光ろばたづけや日光みそのたまり漬・上澤梅太郎商店がある十字路を右折
宇都宮から一般道を利用
 国道119号線と国道121号線が合流、商店街に突入した後すぐ右手

 電車の場合『下今市駅』もしくは『JR今市駅』で降りましょう。いずれも目の前にある道を直進し商店街方面に向かえば10分程度でたどり着けます。道の駅では地元のお土産が多数販売されているので帰りに寄るのも良いでしょう。ちなみに、敷地内には自由に弾けるピアノもあるんですよ?

いざ記念館へ

 船村徹記念館は大きな建物なのですぐ見つけられます。まずは入り口前、観光地にありがちな『○月○日に来たよ!』的な記念撮影場があるので一枚どうぞ。その裏には船村徹氏が作詞だけ携わった珍しい曲『巷の唄』の歌詞が掲載されています。この唄は、彼が旧友に対し送った手紙が元であるという話を塩谷町にある『道の駅 湧水の郷しおや』資料館で知りましたが、そのエピソードを聞くとどんな偉人でも苦労した時期があるんだなぁ、とひしひし感じますね。

 入場しましょう。すぐ左手に売店があります。船村徹氏の曲集はもちろん、北島三郎氏を代表とした彼の弟子に多数の楽曲を提供し続けた美空ひばり氏などの名盤が揃っています。ファンの方はジャンプして喜ぶのではないでしょうか?

 記念館内部へは有料ですが、わたしが入場した2023年1月6日時点で『550円』という価格でした。中で経験した数々を思うと「もっと高くてもいいんじゃない?」と思ってしまうほどのお得感がありました。彼が今まで手掛けた音楽を歌詞付きで聴き放題できるコーナーもありお得感満載です。我こそは船村徹ファン筆頭である! と自負なさる方はぜひ起こしください。

大迫力の3DCG映像 作曲家”船村徹”の一生

 料金を支払ってすぐ出発、といきたいところですが、まずはスタッフよりムービーシアターへの案内がされます。ふるさとの塩谷町、日光市の自然の数々が映像化され、そのなかで歴代の歌手が『風雪ながれ旅・矢切の渡し・みだれ髪』などの名曲を次々と歌っていく内容です。前編通して20分弱、大自然の迫力に圧倒されながらこころを潤すことができました。

 記念館は3階建て、1階はシアターと売店で、本格的な資料館は2階になります。壁には歴代の名盤(みんな若い!)が所狭しと並べられ、道中には『春日八郎』氏に『鳥羽一郎』氏など著名人とのエピソードが語られています。とくに印象深いのは『美空ひばり』氏復活の象徴『みだれ髪』に関するエピソードですね。厚生労働省が特定疾患として指定する特発性大腿骨頭壊死症からの復活。そして船村氏の「ムリせずやろう」という言葉に対し彼女は「手加減なしでお願いします」と返す。これだけで、両者の中にどれほど深い絆があったのかが伺えます。

 ほか、彼直筆の作曲ノートや紫綬褒章などの勲章、褒章も展示されています。ちなみになんですが、アナタはこの言葉の意味が理解できますか?

<strong>母親</strong>
母親

このデレスケヤロー!

 船村氏がラジオで自分の歌が流れたことを母に言って、信じてもらえなかった時返されたセリフです。少しあとで答えを教えますので、この言葉がどういう意味か考えてみてください。

 3階は憩いのスペースになっており、受付で注文すれば常設されたカラオケボックスを利用することができます。ほか船村氏が愛した日光連山を拝めるガラス張りの広いスペースが用意されています。船村徹氏ゆかりの人物およそ100人くらいの手形も展示されているのですが、わたしは『鳥羽一郎』氏か『小林旭』氏と同じくらいの大きさでしたね。ちなみに最もデカかったのは、現在歌手として活躍中の元力士『増位山 太志郎』氏のものでした。

<strong>犬物語</strong>
犬物語

さすが元力士、マジでデカかった……あれは巨人だわ

 ムービーシアター含めすべてまわって1時間程度。とても貴重な体験ができたので、機会があればまた行きたいですね。実は船村徹記念館の開館初日にも入ったことがあるのですが……えー、若いお客さんがひとりもおらずわたし以外は全員お年寄りの方々ばかりでしたねぇ。平日昼間ということもあったでしょうけど、もうちょっと若い方に船村徹氏の魅力が伝わればいいなぁ、なんて思ったりします。この記事がその一助となってくれたら幸いです。

でれすけ = 栃木弁で『バカもの』という意味です。知ってたアナタは栃木人?
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 船村徹氏はフリーになった後全国を行脚する『演歌巡礼』を行いました。ハワイなど海外にも出向き、日本のこころの歌を全世界に広めていきます。刑務所への慰問演奏なども精力的に行い、作曲者という肩書きにとどまらない活躍を見せています。そんな彼だからこそ広く国民に受け入れられ、日本を代表する作曲家になったのでしょう。

 そんな船村徹氏の幼少期はいったいどのような子どもだったのでしょうか?

湧水の郷しおや 福田博郎氏の一生

YouTubeチャンネル、キミちゃんねる:投稿動画より

 船村徹氏の故郷船生村、現塩谷町には『道の駅 湧水の郷しおや』があります。彼に関する資料も揃っており、こちらは記念館にあるような船村徹というより船生村にいたひとりの少年福田博郎に関する情報のほうが多い印象を受けました。

 道の駅限定の本も販売されているので「我こそは船村徹ファン筆頭である!」と意気込む方はぜひお立ち寄りください。

道の駅 湧水の郷しおや
 ホームページは こちら

湧水の郷しおやへ行くには?

 湧水の郷しおやは国道461号線沿いにあります。おすすめの交通手段は『』で、電車では東武鬼怒川線の『新高徳駅』を降りてバスを利用。手間がかかってしまうのでおすすめできません。有料道路を利用する場合『今市IC』もしくは『土沢IC』で降りましょう。

 目の前の国道461号線(船生バイパス)は、通称『船村徹ふるさとの路』と呼ばれ親しまれています。道の駅ではレストランのほか鮎の塩焼き、かき氷など”田舎感”あふれる食材が揃っていますね。地元名産の豚肉を使った料理も楽しめるのでぜひご活用ください。

船生村の徹

 『船村徹』という名前は船生村に因んでいます。湧水の郷しおやにある資料館の情報によれば、母の「色々なことに手を出さず、ひとつのことに徹しろ」というメッセージを受けて誕生した名前だそうです。

 船生村の徹。故郷を背負って旅立つ覚悟が伺えますね。

 資料館では彼の幼少時代が赤裸々に語られていました。周囲を自然に囲まれ、毎日山を駆けずり回っていた少年時代。小学校に入学した際、学校から5キロも離れた家に住む児童のため朝早くから起きて迎えに行くエピソードなどはとても衝撃的でしたね。

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思いやりのあるガキ大将 多彩な能力

 彼は小学生のころから面倒見がよく、リーダーとしてまとめるグループではいじめなどが起こらなかったと言います。当時の写真がいくつか残っており、吹奏楽部のトランペット奏者として活躍する姿は、現在親しまれている『船村徹』としての片鱗をすでに感じさせていました。現在も、彼の母校である『船生小学校』には所属していた吹奏楽部が存在しています。いずれは船村氏を超える逸材が現れるかもしれませんね。

 作曲家として有名な船村徹氏ですが、実は絵画や写真のウデも相当なもので資料館には多くの名画が残っています。また、船生の自然の中育ってきた彼は釣りも大好きで、自作の毛針でなければ決して釣りをしなかったほどの情熱っぷり。とくに北方に見える高原山の魅力にとりつかれよく写真を撮りに足を運んだそうです。

地域に馴染む”船村徹”のうた

 日本を代表する作曲家ですから、レコード会社のみならず公的機関からも作曲の依頼が次々やってきます。栃木県では日光市高根沢町旧氏家町などが市町村歌の作成を依頼し、塩谷町は町歌自体が無いものの『塩谷町音頭』の作曲を担当。ほか母校の船生小学校南原小学校など多数の校歌も手掛けています。

 アナタの母校の校歌、ちょっと作曲者欄をチェックしてみてください。そこには意外な名前が書かれているかもしれません。生涯5,000曲以上を作曲した船村徹氏が触れなかったジャンルはあるのでしょうか?

 現代も多くの人々に愛される船村徹氏の曲の数々。わたしもカラオケで『ご機嫌さんよ達者かね』に『矢切の渡し』に『みだれ髪』などけっこーうたってます。タバコを愛した彼の人生を想い、アナタも一曲口ずさんでみてはいかがでしょうか?

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